あなたは今「しあわせ」ですか。私は今「しあわせ」です。例えそう言えたとしても、明日になったら幸せではなくなるかもしれない。いまそうであるか、いまそうでないかは難しい。だけど今を「しあわせ」と思うことはいくらでもできる。
■感じることが正しいのか・・・
普通の人は当たり前の生活を送れて、当たり前の欲求を満たしているのであれば、小さな幸せと感じることもできるだろうが、実際にはそう感じている人は少ない気がする。だからと言ってそれほど不幸でもないけれど幸せでもない。
確かに当たり前の生活を送れることは、ごく自然で嬉しさを感じることもないだろうが、交通事故に合う重い病気にかかるなど、自分の身に不幸が起こると、その時は少しだけ感じることもできるだろう。
人はなぜ今の幸せを感じることができないのだろうか。現状で満足のいっている部分だけでも認められないのだろうか。普段から幸せに触れているだけで、心は豊かになるんだと、なぜわからないのでしょうか。
きっとあなたは幸せです。でもそれを認められないでいる、それ以上を求めている。その結果はあなたが今感じている正しい感覚なのかもしれない。しかしそれによって実際よりも不幸と感じていることは悲しい。
◆幸せなんだと思いなさい・・・
今日あなたは、自分の為に何をしましたか、自分に対して何を行いましたか。誰かの為何かの為といって忙しい思いをする人もいますが、そんな人もたまには「自分の為」に何かをしてみませんか。
■内に住む住人
人の中には他人が見ることも触れることもできない、内に秘めた意識があります。たとえ心理学の専門家であったとしても、その内に秘めた思いを探ったり掘り起こしたりすることはできないものです。
つらい事が続いたり嫌な事があったときに、他人に話せず自分だけでつらい思いを背負い込む人がいますが、殻の中に閉じ篭もった本人を助けられるのは、自分自身しかいないのです。
肉体も精神も違う他人は、その人のつらさを態度や言葉といったもので、間接的にしか知ることができないし、直接何かをできるわけではありませんよね。でも話を聞いてあげたり気持ちを分かち合うことで、受け入れたり理解してあげることはできるはずです。
それを他人に対してだけではなく、自分に対しても行いましょう。自分に関心を持ち、心の変化を知り、過ちを認め、間違いを許し、たまには甘えて、自分の心の重みを取り去り楽にしてあげましょう。人はそれを自分自身でも望んでいるのですから・・・
◆自分を大切にこれからも付き合っていけるように・・・
右か左か、上か下か、黄色か青か、二つに絞られた選択肢は決定的な差がなければ、選ぶのに苦労することがある。選択肢が多い場合には意外にも、絞ることができるが、少なくなればなるほど、人はもう一方の可能性を捨てられずにいる。
■方向性と選択
何かに迷った時には、二つの選択肢を思い浮かべると決断を早められることがある。これもいいが、あれもいい。こっちにするとこうで、あっちにするとああで、結局はどちらも選ぶことができないでいるのである。
そんな時考え方を変えてみるのが一番の解決法である。この迷うこと自体に楽しみを感じているのであれば、気が済むまで迷いを楽しんでもらえばいいのだが、答えを求めることが目的ならこんな方法を試してみるのもいいだろう。
自分は今現在、何を必要として、何によってそれば満たされるのだろうか。その質問をそっと自分に問いかけてみて下さい。きっとそれで解決することもあります。しかしそれでも解決しない方は、何が一番で何が二番かを決めてください。
決めれないというのは、自分のわがままからきていることもあります。あれもこれもと、良いトコ取りしようとして目の前の選択を決断できずにいるからです。自分が求めているものは何かを明確にした後で、一番を選ぶこと、二番を捨てることが最善の道ではないでしょうか。
◆どちらか一方がベストな結果になるとは限らない・・・
私たちは当たり前に話したり、それを聞いたり、それで思いついたり、時には行動を起こし何かしらの反応を示す。しかしその理屈は何かを知らずにいる。わからなくたって何も問題はないが、考えてみると世界が違った風に見えるだろう。
■思考プロセス
人と人はコミュニケーションをとることができるが、その時に相手の行動や意図を感じ、それに対してどのような行動をとるか考えることができる。話を聞きながらその情景を思い浮かべることもできるし、どういう意味か理解することもできる。疑問があれば聞き返すこともできるし、こちらから話すことも可能である。
その時、頭の中では複雑なプロセスが働いていることだろう。私には他人の頭の中は見ることも感じることもできないが、反応を見ながらある程度の予想を立てることくらいならできる。話を聞いているのかいないのか、理解しているのかいないのか、聞く気があるのかないのか、判断することはできる。
それはパソコンの動いている仕組みと似たようなもので、一定のプロセスがそこに存在するからだと思う。パソコンならエラー表示するように、人もわからなくなると不安そうな表情をするものだ。顔の表情は一つのインターフェースと言ってもいいのかもしれない。
パソコンの扱うデータ、内部処理、結果出力といったように人も話の内容、考え方、それに対する行動を示すのかもしれない。そういう風に考えながら人と話をしていると、相手が何を考えどうしようと思っているのか、わかる気がしますよ。
◆あなたにも人の心が手に取るようにわかる・・・
人の行動はその人が持つ考え方によって左右される。そして行動によって人の考えは変わるのである。行動は考え方によって、考え方は行動によって、どっちが真実なのだろう、それはどっちも真実である。
■あなたは今何をしていますか。
自分がどんな人間かを知る為には、自分で自分をよく観察することだ。起きる、仕事へ行く準備をする、働く、休む、遊ぶ、何も考えずに一日は過ぎていく。でもそこにはあなた自身の考え方が隠れている。
仕事に行きたくないと思うと起きるのが遅くなる。よく遅刻をする人は、遅れてもいいと思っている。どうしても遅れられない人は、早く起きて準備をする。何かトラブルが起きても対処できる余裕を常に確保しているのだ。
仕事でも早く帰ることだけを考えながら時計を見ている人、時間内にできるだけのことをしようとしている人では違いが出てくる。給料だけを貰いに来ている人と、会社の為に役に立つことで対価を得ようとしている人では働く動機が違う。
あなたはどっちが正しいと思いますか。そしてどっちの考え方を持っていますか。実際はどっちも間違ってはいないし、決めるのはあなたです。どっちの動機でも会社は仕事の良し悪しを見る。できる奴は評価される。しかし10年後どうなっているかぐらい予想がつきますよね。
◆行動と考え方は常に一対である・・・
何か新しいことを始める時に上達の早い人は、まず真似ることから始める。自分と相手は何が違うのか、どうすれば同じようにできるのかを、見ながら感じながら覚えていく。
■感覚の記憶
ボールを狙ったところへ投げる場合、始めの1球は思ったところとズレがあるだろう。それは遠くに投げるほどわかりやすくなるはずだ。練習をしていけばある程度コントロールもよくなるが、もっといい方法がある。
それは感覚の記憶を利用することだ。始めの1球を投げた時の感覚と、ボールの行き先を覚えておいて、それに修正を加えていくというシンプルな方法である。イメージ通りにいけば数回投げればかなりの高確率で同じところに投げれるようになる。
世の中には理論として伝えられるものも多いが、実際に行動を起こすときには感覚が重要になる。それは文字を読んだりするのではなく、実際の行動を見ながら体感するのが一番いい。投球フォームもゼロから作るのではなく、目指す球筋のピッチャーから盗むべきだ。
言葉は聞いたり書いたりすれば覚えられる。では感覚はどうすればいいと思う・・・それはもちろん体感すればいい。模範になるものを見て感じれば覚えられるのである。どんな時でも同じだと私は思います。
◆自分の型を作るにはまず誰かの型を真似てみよう・・・
自分の中にはもう一人の自分がいる。それは自分自身の中の別の自分であり、そして自分である。話しかけることもできるし、嘘をつくことも面白いことを言って笑わせることもできる。自分との付き合いにも上手い下手があるのである。
■自問自答
会話では相手に対して問いかけることがある。疑問に思うこと、興味があること、それは他人に対してのみ行う行為ではなく、自分に対しても可能な行為である。その問いかけに対して、当然答えることも可能である。
考えるというのは自分への問いかけに似ている。何々があって、何々がどうなって、では何々はどうなり、だから何々になる。自分自身へ問いかけるというのは不思議な感じがするが、自分の中の自分へも他人へも行う行為は同じことである。
問いかけるという行為はどのような意味を持つのだろうか。それは自分に対して行うことによって何が変わるのだろうか。そしてその行為を行うのと、行わないのとではどんな違いが生まれるのだろうか。
自問自答は「己を知る」という重要な意味を持つ。自分のことを全て知っている人なんていないでしょ。人は自分を理解するにも問いかけなければならない。他人を受け入れるように、自分を受け入れる為にも問いかけなければならないのである。
◆それが正しいのか間違っているかも、人は自分へ問いかける・・・
地域に根付いた文化というのは、今も変わらずあるものだ。何月に何があって、どこどこの誰が何をするという風に昔から決まっているのだ。その中には上手くできた仕組みが隠れていることがある。そんないい文化をもっとたくさん創造していきたい。
■古き良き文化
文化というとかしこまった様式の行事だったり、地域のつまらない催し物を想像する人もいるだろう。特に若い人は、文化の定義も理解できていないままイメージばかりが先行する。
若い人たちを中心に文化を知らずに生きている人が多いと思う。地元に古くからいる人間や、地域に密着した活動をしていない限り、知る機会もなくその価値すらわからずに過ごしてしまう。
きっかけさえあれば文化の価値について知ることも理解することもできるが、教えられる人やその文化の本質を理解している人と、関わる機会そのものが減っているのも現代の環境だろう。
結果的には日本の文化が消えようとしている。古き良き文化は途絶え、いつしか消えてしまうのも目に見えるようだ。私にはそう感じる日本の現状をどうにかしたいと思っているのだが、想いというのはなかなか形にならないらしい。
このブログを読んでいる人が、少しでも文化について知りその価値を理解してもらえるのならそれで十分なのだが、その想いが私と一緒なら、その意志を何らかの形で示して欲しい。
その前にまず、私なりの文化に対する考え方と、その認識について知ってもらいたい。文化がどれほどの価値を持ち、自分の中にある認識とどれだけ違うのかを考えながら読んでもらえると幸いである。
■本来あるべき文化とは
文化の意味を辞書で調べると「集団の人間による、長年にわたって伝達・形成された、習慣や生活様式などの総体・体系的なもの」そのようなことが載っている。いわゆるカルチャーだが、その定義を噛み砕いてみよう。
一般的に言われる文化は、社会を形成する集団の人間によるもので、単独の人間の持つものは文化とは言われない。個人的なものも、長年の歴史があるのなら文化と呼んでも本来ならいいはずである。
長年にわたる形成・共有・伝承が行われるものが、文化と呼ばれるにふさわしい。短い期間で形成されるのは、文化の初期段階と言ってもいいが、後世に残る本物でなければ呼ばれる資格がないのである。
文化の形は様々だ。日常生活の慣習や習俗などに、それを作り出す全てのものを指すといってもいい。学校に行くのも日曜日に休むのも文化、夏祭りや花火、正月に餅つき、結納から結婚まで文化である。
文化をみんなに認められ受け入れられ残ってきた、素晴らしく価値のあるいいものだと感じているが、文化の全てがいいものという訳ではない。良くないこと、一部の人に受け入れられてきたこと、間違った方向へ進んでいったことが存在しているのである。
その違いを決める境界線も、正しさの方向性も明確に存在しないからこそ、人々は混乱し本来の古き良き文化を見失い、文化の保守と革命の日本を期待する。本来のあるべき姿を取り戻せば、その必要性も意義も見えてくるというのに・・・
■極論に走る過ち
いまの日本がどうなっているか、理解できている人は少ないだろう。特別な職業か専門家でもなければ知る術を持つはずもないが、マスコミに情報を操作され間違った認識を持つ人も多いだろう。
そんな自分の考えを持たない人の意見は二つに分かれるといって言い。「古き良き時代の文化が失われようとしている。もう一度日本の文化を見直しそれを守っていこう」と言う人。「時代はすごいスピードで変化している、それをいつまでも古い考えのまま守る必要もないのではないか。思い切って変えなければ何もならない」という人。
両者はそれぞれ対立した意見を持っているように思えるが、両者は正しいことを言い、大きな過ちを犯している。その違いがわからなければ、いくら建設的に話し合いをしたところで対立した意見は変わらず、いい方向へ進むことはないだろう。
なぜ失われようとしている文化を、そのまま残そうと変わらない方法をとるのか。なぜ変化の速い時代だからといって今までのやり方を捨ててしまうのか。両者が歩み寄ることをしなければ、文化は衰退と破壊の運命をたどる。
■文化の創造を教える
文化は今になって残っているもので、過去に創造されたものだ。時の流れの中で様々な工夫を加えられ、邪魔なものを削ぎ落とされて、進化し残ってきたものである。変わらずにと言われていても、変わってきたのである。
それを伝統だとか変えることができないだとか言って、時代の変化に対応してこなかったものは、人であっても物であっても失われてきた。変わらないために変わってきたものが今でも残っているのである。
文化は変えてはいけない訳ではない。その時代、その場所、その目的に応じて方法を変えていくもの一つの手段である。守るべき箇所は守り、残すべき箇所は残す。その上で変えていける箇所を、本来の価値を失わせることなく変えていけることが必要である。
それは今までのやり方を捨てるわけでも、ゼロから全てを作り直すことでもない。それこそ無駄であり、文化を失うことと同じである。変わることで失うのなら、きっと間違った方向へ進んでいる。変えることも守ることも同じくらい難しいことなのである。
古き良き文化を残していくことも大事だが、それを創造していくことももっと大事だ。今の文化だって過去の人が創造したものだと知ればそう感じるでしょう。人の為にできること、献血やドナー登録、募金、ボランティアこれも一種の文化じゃない?
身近な誰かに何かをしてあげること。されて嬉しかったことをしてあげること。その気持ちや価値観を広めていくことが、良き文化の創造につながると思う。なんでもいい、自分ができることをしてあげられる、そんな習慣を身に付けれれる文化をつくりたい。◆それを教えていける文化になればいい・・・
パソコンでプログラムを組んだことがあるだろうが。プログラムのソースには人が理解できるレベルで、ルールの決められた言語が書かれている。しかし機械はそれよりも単純なコードを組み合わせることで、複雑な動作をする。言葉で言うのは簡単でも、中で行われている処理は想像もできないくらい複雑である。
■人の処理能力
ロボットの指や手を、人間のように動かすための制御は、複雑なプログラムを組む必要があると思う。モーターの回転だけで走るラジコンとは比較できないくらい、制御の構造もプログラムも複雑になるだろう。
人というのも複雑な処理が行われているに違いない。間接一つ一つに細かな力を調節する制御を行うとしたら機械では可能かどうかわからない。その正確さや応用力は機械には真似できないだろう。
その動作を処理する能力に驚くべき可能性が秘められている。人間は更に進化することができるのだから、複雑な処理を強化することで、もっと優れた能力を発揮することができるのである。
動作の途中をとばして単純化したり、二つの別なもに分けたり、同時に実行できるようにしたり神経回路をつなぎなおすことが可能なんだろう。それによる動作は常識的なものを覆す。
◆意識を超えた身体能力・・・
バラバラだったものが一つになるように、その動作は実行される。頭では判断できなくても、体が覚えているのならば、あとは自然と動けるものである。それは緊張感のピークでも、熱くなった感情でもない・・・
■リラックスの最高潮
車で事故を起こしたことがあるだろうか、私は過去2回ほどその経験をしている。死ぬ直前には走馬灯のように過去の出来事が一瞬で巡るらしい。その時は一瞬の出来事が数秒のスローな映像として流れていた。
車がスリップし横すべりしながら見ていた、真横に流れる風景は、もの凄く速く感じるのに思考はゆっくりとその映像を捉えていた。その一瞬だけもの凄い集中力があったことを実感できた瞬間だった。
同じように集中力を高めると、緊急時に近い体験をすることができる。頭は回転がよく、状況を的確に判断して、最適な決断を下す。体はキレ、想像もできない動きができる。自分でも信じられない体験がそこにある。
その状態は意外にもリラックス状態で訪れる。一生懸命に頑張っていても、集中力を奪われいくだけで、鋭さが足りない。テンションは上がり熱くなりながらも、冷静さとリラックス状態で、ピークを保ち続けるバランスが大事だと思う。
◆覚醒した意識の中で・・・