今日お昼に食べたメニューや出会った人、話の内容など経験したことは覚えているでしょうか。意識をしなければ忘れてしまうこともありますが、大抵のことは記憶に残るものです。
■失わない為に
自分が体験したことは記憶に残りやすいと思います。人から聞いたことや本などで読んだことはあまり残りません。イメージが膨らむような印象深い話ならすぐに覚えるかもしれませんが、実際に身の回りで起きたことの方がはっきりと記憶できます。
記憶の中には役に立つことも役に立たないこともありますが、同じ記憶として管理されており、それはまるで大きな倉庫のように広く膨大な容量を持っています。パソコンのハードディスクのように容量に限界があるわけではありません。
実際はあるのかもしれないが、私の知る限りでは、覚えられないからといって記憶を捨てたり削除したりする人はいません。それだけ限りない容量を持っているのですが、記憶のコントロールは完璧じゃないだけに忘れることもある。
失いたくない記憶や、私の知らない誰かにも大切な知識を残していきたい。役に立つことや大切なこと、自分が経験した悩みやその解決策など、与えたいものはたくさんある。それを必要としている人のためにも何かを残していきたい。
◆生きた証を残しながら、新しい世代を育てたい・・・
知っているようでわからない。わかっているようで理解できていない。理解できているようで何も知らない。人は思っている以上に無知である。知らないことに気付かない限り、成長もしないし、他人から認められることもない。
■隠れた能力
学校では正しい答えを知っている優等生だけが褒められ、知らない人は覚える機会さえ与えられない場合が多い。テストでは答えが正解か不正解かを評価されるだけで、どうして間違っているか、どうすれば正解かを教えてはもらえない。
それは仕方のないことかもしれない。全ての生徒に平等に同じ学力や知識を与えるのは困難だ。多少の得手・不得手はあるし、限られた場所と限られた時間では、どうしても限界がある。
教えられる側が聞く気がないというのも問題だ。それよりも教えることが必要でない場合や、知らなくても全然問題にならない場合もある。必要ならば必要なだけ与えてやればいいのだ。
教えると言うのは詰め込むイメージがあるが、与えるのではなく掘り起こすと思ったほうがいい。教えるとは、その人が持つ興味や、すでに知っている知識を使って新しい知識ネットワークを構築させてあげることだ。
◆通ったことのない道を、存在しないと否定する・・・
私たちが見ている世界は、太陽の光によって明るさがあるからである。そしてその光は太陽から真っ直ぐ届くので、太陽に向いている地表に対して降り注ぐ。明るい時を昼間と言い、暗い時を夜と言う。
■人生の輝き、人生の闇
地球は自転をしている。それと同時に太陽の周りを公転している。その位置関係や、向きによって地球上の気温や天候などの環境は変化する。
人の運も周りの人との関係や、自分自身の状態によって上がったり下がったりする。晴天の青空のように全てが上手くいく時もあれば、強風吹き荒れる雷鳴と豪雨のような不運に見舞われることもある。
太陽の光のように大きく強い明るさを持つと、そこから生まれる影の大きさもまた巨大なものとなる。人の運も同じようなものなのだろうか。この上ない幸運が訪れたなら、信じられない不幸に出会うことになるのだろうか。
物事は逆である。大きな成功を掴んだ者の中には、大きな失敗や多大な不幸を重ねた人も少なくない。その逆境を乗り越えてこそ、真の明るさを太陽のような光を浴びることができるのである。
◆日陰の外には眩しい光が・・・
普段どおりの生活をしていると、その日一日はごく普通に終わってしまう。何か新しいことを始めたい、または目的を達成したいと考えるなら、何かをしなければならない。その何かをほとんどの人々は知らぬまま過ごしている。
■一歩上の思考回路
物事を考えるレベルは常に一定の水準で保たれるのが普通だ。それを人は価値観と言ったり、その人らしさと呼ぶ。生きている世界、生活の水準、物事に対するその人の反応や行動は、物理の法則のように同じ状態を保とうと慣性が働く。
だからといって同じ生活のまま一生を過ごすのは嫌だと、思う人は少なくない。今よりも豊かに、今よりも幸せに、今よりも自由にと考えてしまうのが人間なのではないか。それが自然な考え方なのではないか。
確かに当たり前の幸せを感じる普通の生活もいいのかもしれない。リスクやストレスの少ない、変化が穏やかな生活は魅力も多い。でもそんなぬるま湯の生活がどうしても嫌だと思うこともあるだろう。そんな時はどうすればいいのか。
答えは意外に簡単だったりする。考え方を変えるのである。単純なことだが、実際には難しいことかもしれない。今までの考え方を一歩上の目線で、違う角度から見直さなければならない。時には今までの考えを捨てることも必要になる。それがどんなにつらい事かは体験するまでわからない・・・。
◆今を捨てても明日を取る・・・
しばしば自分勝手にわがままに勝手気ままに、自己解決で終わってしまう人を、悪い意味でジコマンと言ってきましたが、自分が満足することの何が悪いのですか。ですが、みんなで共有している時間や空間を、独占してもいいといっている訳ではないのですよ。
■実現・達成
自分にやる気を出させ、物事に積極的になるためには、まず目的に対する目標を決めることが大事である。欲望でも願望でも希望でも夢でも、何が自分が望むことなのか、どういう風になりたいのかを、思い描くだけでもいい。
どんな自分がいいか想像したら、次はその目的に対して、具体的な目標を決めることだ。仕事を上手くこなしたい、もっと遊ぶ時間を増やしたいと思えば、仕事のノルマや成績などの数字に表す、週にどれだけの時間をあけるか決めるなどである。
まず決める。そしてそれをただ実行する。そうすれば自ずと結果は訪れる。それはいつでもいい結果ばかりではないけれど、何もせずにジッと待っているだけでは何も変わらない。例え目標どおり計画どおりに上手くいかなかったとしても失敗があったとしても、結果がでることで次に進めるのです。
考えているだけでは始まらない。何かを実行して目標を達成した。それで自分が満足できれば、あなたには次がある。もっと大きな目標、そして目的に一歩ずつ近づくのである。自己満足で実現し、望む結果を達成できるのです。
◆満足が人に与える影響とは・・・
物事を詳しく調べようと思えば、過去の歴史を振り返るのが効率がいい。今までに誰かがやってきたことや、試したことを調べてみることで、自分がそれを経験するよりも多くのことを学べるからである。
■過去と未来
何か面白くないことが起こると、時間を遡って、あの時にこうしておけばよかったと後悔する人がいます。科学や工業が発達した現代でも、タイムマシンの開発には成功していませんから、過去を振り返って何かを変えることなんてできません。
それでも何度も同じ場面を思い出しては、こうしていたら今はもっとよかったはずだと、勝手な想像を膨らまします。過去へ戻ることなどもちろんできないし、未来がどうなるかはやっぱりわからないのです。
過去にこだわることは、無駄な議論の元になるだけでなく、未来の可能性もつぶしてしまいます。過去で失敗したことをいまも繰り返すような人は、少し後の未来でも同じことを口に出すでしょう。
過去にある可能性を求めるのではなく、過去から何かを学び、今にそれを活かすことで、未来の可能性を広げていくことが、自分にとって有益なことになると思います。過去は過ぎてしまった、しかしあなたには未来がある。
◆失敗から学ばなければ、また同じ言い訳を繰り返す・・・
約束の時間に遅れないというのは、一般的な常識と思いますが、必ず遅れずに来れる保証もありません。そんな時はどちらか一方が待つ側、そして他方が待たせる側になるわけです。両者の時間の流れには、もの凄い違いが現れます。
■時が過ぎるのは早いけど、待つのは遅い。
約束の時間に遅れ、人を待たせている時は、過ぎていく時間が速く感じます。遅れる原因にも色々ありますが、準備不足による出遅れや、他の用事と重なっている場合、何かトラブルに巻き込まれて予想外に遅れてしまうなど、自分に落ち度がある場合もない場合も様々です。
一方待たされている時は、もちろん相手に原因があるのは明らかですが、時間より早く着いてしまうこともあるし、無理な時間設定だったとも考えられます。それでも待つ側としては遅く感じ、時計を何度も見直しては相手が来るのを待つ他ならないのです。
待たせる方は急いでいても、時間は速く過ぎていくし、待つ方はどんなに時間をつぶしても、時間は止まったように進まない。そこには流れる時間と人が感じる感覚の違いを示す、時間の法則が働いているのではないか。
時間には全てのモノが共有する基準的な時間と、人それぞれが感じる相対的な時間があると思う。時間の速さは、全体分の部分で表現でき、自分が動けば動くほど、時間の流れは高速になっていく。その果てにコンマ何秒を争う世界がある。
◆加速するほど増していく、時間の価値とは・・・
スポーツでもゲームでもルールが存在するが、そのルールを無視して進めたときはゲーム性や面白さは失われ、何の為にルールを決めたのかを問いたくなる。どうしてルールが存在するのかを考えてみよう。
■実現する過程
世の中が自分の思い通りに何でもかんでも自由自在になるなら、どんなことをするだろうか。あなたが望むことを全て実現させるのだろうか。例えそんなことができたとしても、人はそれで満足などしない。
知識や技術を身に付け、能力やチカラを持つことは大切だ。言葉を話し読み書きを行って、数を数え計算をする。それによって日常の生活を円滑に進め、働きによっては報酬を得ることもできるし、その収入を使って何かを手に入れることも可能だ。
でもそれは何の為に必要なのか。知識を身に付けることが、技術を習得することが重要なのか。それとも何かを実行できるチカラが重要なのだろうか。いや違う、それらは生きるという目的の為の手段に過ぎない。
誰でも一つの手段・方法が絶対の条件だと思い込んでしまうことはよくあるが、行き詰った時や上手くいかないときこそ、それが一つの手段であって目的ではないかを、問うことが大切になる。それは絶対に必要だと思ったときこそである。
◆今一度問う。それは本当に必要か・・・
トランプなどを使ったカードゲームというのは、エースからキングまで13の数字と、ハート・スペード・ダイア・クラブの四つのマークが組み合わさった52枚とジョーカーを使い、様々なルールに従って行う。でも使うのはたった54枚のカードだけだ。
■組み合わせで無限へ
学校で習う国語や数学、理科、社会などは一見なんの関係もないように思える。漢字をたくさん書けるようになっても、それによって数学の成績が上がるわけではない。一つのことを学んでも、他のことには影響しない為、知識は点のように単体としての集まりでしかないのではないか。
パソコンのモニターである液晶ディスプレイも、最小単位で見れば小さなドットの集まりに過ぎない。しかしそれを数千から数万の集まりを一つと捉えると、それは絵になり、風景になる。
知識というのもたくさん集まれば絵のように風景のように、大きなものとして見えるのかもしれない。でもそれだけだろうか。私たちはもっと重要なことを見落としているに違いない。組み合わせ方によってもっと変化するのではないか。
単に知識はそれだけのものとして捉えるのではなく、もっと違う使い方、もっと違う組み合わせ方によって無限に変化を起こせる。液晶ディスプレイは絵だけではなく、動画も表現できるし、臨場感も与えてくれる。発想の転換が大事である。
◆あなたの知識は一枚の絵なのか、それとも・・・
私たちは数百数千の言葉を話す。それらは単体では抽象的であったり、曖昧な言葉になるが、組み合わせることで明確になったり、限定的になったりする。逆を突けば複雑な事柄も単体の組み合わせなのである。
■個別に学び得る
小学校へ通う前のほとんどの子供は、簡単なひらがなや足し算ならともかく、漢字や複雑な方程式などは解けない。それはいきなりできるようになるものではないからである。
どんな子供だって、最初は簡単なひらがなやカタカナを覚え、漢字を書くようになり、多くの言葉を知りながら色々なことを覚えていく。数学だって、足し算を覚え引き算を覚え、掛け算割り算、方程式とレベルアップしていく。
仕事においても遊びにおいてもそれは共通している部分が実は存在する。悪く言えばエスカレート、よく言えば成長となるのだろう。段階的にレベルアップすれば、どんな複雑な事柄も小さな要素の集まりに感じるだろう。
掛け算だって、足し算の組み合わせである。足すことができれば掛け算はできる。そうやって何かを学べば、新しい何かに挑戦することもできるし、基本の大切さを感じることにもなる。
◆軸となる点は大切なもの・・・