今日あなたは、自分の為に何をしましたか、自分に対して何を行いましたか。誰かの為何かの為といって忙しい思いをする人もいますが、そんな人もたまには「自分の為」に何かをしてみませんか。
■内に住む住人
人の中には他人が見ることも触れることもできない、内に秘めた意識があります。たとえ心理学の専門家であったとしても、その内に秘めた思いを探ったり掘り起こしたりすることはできないものです。
つらい事が続いたり嫌な事があったときに、他人に話せず自分だけでつらい思いを背負い込む人がいますが、殻の中に閉じ篭もった本人を助けられるのは、自分自身しかいないのです。
肉体も精神も違う他人は、その人のつらさを態度や言葉といったもので、間接的にしか知ることができないし、直接何かをできるわけではありませんよね。でも話を聞いてあげたり気持ちを分かち合うことで、受け入れたり理解してあげることはできるはずです。
それを他人に対してだけではなく、自分に対しても行いましょう。自分に関心を持ち、心の変化を知り、過ちを認め、間違いを許し、たまには甘えて、自分の心の重みを取り去り楽にしてあげましょう。人はそれを自分自身でも望んでいるのですから・・・
◆自分を大切にこれからも付き合っていけるように・・・
地域に根付いた文化というのは、今も変わらずあるものだ。何月に何があって、どこどこの誰が何をするという風に昔から決まっているのだ。その中には上手くできた仕組みが隠れていることがある。そんないい文化をもっとたくさん創造していきたい。
■古き良き文化
文化というとかしこまった様式の行事だったり、地域のつまらない催し物を想像する人もいるだろう。特に若い人は、文化の定義も理解できていないままイメージばかりが先行する。
若い人たちを中心に文化を知らずに生きている人が多いと思う。地元に古くからいる人間や、地域に密着した活動をしていない限り、知る機会もなくその価値すらわからずに過ごしてしまう。
きっかけさえあれば文化の価値について知ることも理解することもできるが、教えられる人やその文化の本質を理解している人と、関わる機会そのものが減っているのも現代の環境だろう。
結果的には日本の文化が消えようとしている。古き良き文化は途絶え、いつしか消えてしまうのも目に見えるようだ。私にはそう感じる日本の現状をどうにかしたいと思っているのだが、想いというのはなかなか形にならないらしい。
このブログを読んでいる人が、少しでも文化について知りその価値を理解してもらえるのならそれで十分なのだが、その想いが私と一緒なら、その意志を何らかの形で示して欲しい。
その前にまず、私なりの文化に対する考え方と、その認識について知ってもらいたい。文化がどれほどの価値を持ち、自分の中にある認識とどれだけ違うのかを考えながら読んでもらえると幸いである。
■本来あるべき文化とは
文化の意味を辞書で調べると「集団の人間による、長年にわたって伝達・形成された、習慣や生活様式などの総体・体系的なもの」そのようなことが載っている。いわゆるカルチャーだが、その定義を噛み砕いてみよう。
一般的に言われる文化は、社会を形成する集団の人間によるもので、単独の人間の持つものは文化とは言われない。個人的なものも、長年の歴史があるのなら文化と呼んでも本来ならいいはずである。
長年にわたる形成・共有・伝承が行われるものが、文化と呼ばれるにふさわしい。短い期間で形成されるのは、文化の初期段階と言ってもいいが、後世に残る本物でなければ呼ばれる資格がないのである。
文化の形は様々だ。日常生活の慣習や習俗などに、それを作り出す全てのものを指すといってもいい。学校に行くのも日曜日に休むのも文化、夏祭りや花火、正月に餅つき、結納から結婚まで文化である。
文化をみんなに認められ受け入れられ残ってきた、素晴らしく価値のあるいいものだと感じているが、文化の全てがいいものという訳ではない。良くないこと、一部の人に受け入れられてきたこと、間違った方向へ進んでいったことが存在しているのである。
その違いを決める境界線も、正しさの方向性も明確に存在しないからこそ、人々は混乱し本来の古き良き文化を見失い、文化の保守と革命の日本を期待する。本来のあるべき姿を取り戻せば、その必要性も意義も見えてくるというのに・・・
■極論に走る過ち
いまの日本がどうなっているか、理解できている人は少ないだろう。特別な職業か専門家でもなければ知る術を持つはずもないが、マスコミに情報を操作され間違った認識を持つ人も多いだろう。
そんな自分の考えを持たない人の意見は二つに分かれるといって言い。「古き良き時代の文化が失われようとしている。もう一度日本の文化を見直しそれを守っていこう」と言う人。「時代はすごいスピードで変化している、それをいつまでも古い考えのまま守る必要もないのではないか。思い切って変えなければ何もならない」という人。
両者はそれぞれ対立した意見を持っているように思えるが、両者は正しいことを言い、大きな過ちを犯している。その違いがわからなければ、いくら建設的に話し合いをしたところで対立した意見は変わらず、いい方向へ進むことはないだろう。
なぜ失われようとしている文化を、そのまま残そうと変わらない方法をとるのか。なぜ変化の速い時代だからといって今までのやり方を捨ててしまうのか。両者が歩み寄ることをしなければ、文化は衰退と破壊の運命をたどる。
■文化の創造を教える
文化は今になって残っているもので、過去に創造されたものだ。時の流れの中で様々な工夫を加えられ、邪魔なものを削ぎ落とされて、進化し残ってきたものである。変わらずにと言われていても、変わってきたのである。
それを伝統だとか変えることができないだとか言って、時代の変化に対応してこなかったものは、人であっても物であっても失われてきた。変わらないために変わってきたものが今でも残っているのである。
文化は変えてはいけない訳ではない。その時代、その場所、その目的に応じて方法を変えていくもの一つの手段である。守るべき箇所は守り、残すべき箇所は残す。その上で変えていける箇所を、本来の価値を失わせることなく変えていけることが必要である。
それは今までのやり方を捨てるわけでも、ゼロから全てを作り直すことでもない。それこそ無駄であり、文化を失うことと同じである。変わることで失うのなら、きっと間違った方向へ進んでいる。変えることも守ることも同じくらい難しいことなのである。
古き良き文化を残していくことも大事だが、それを創造していくことももっと大事だ。今の文化だって過去の人が創造したものだと知ればそう感じるでしょう。人の為にできること、献血やドナー登録、募金、ボランティアこれも一種の文化じゃない?
身近な誰かに何かをしてあげること。されて嬉しかったことをしてあげること。その気持ちや価値観を広めていくことが、良き文化の創造につながると思う。なんでもいい、自分ができることをしてあげられる、そんな習慣を身に付けれれる文化をつくりたい。◆それを教えていける文化になればいい・・・
自分に対して、自分を知るも方法とは変な日本語である。自分で自分を知ることができないのか。それとも自分が自分をわかっていないということなのか。とりあえずレベル3の最終項目は知り方である。
■自覚
意識と無意識という言葉を知っているだろうか。前者を顕在意識、そして後者を潜在意識と読んでいる。ケンザイとは目に見えて明らかなことであり、センザイとは表に見えない隠れたものである。
良く意識を氷山の一角に例える。水面上に現れる氷の頭は人間の意識を表し、水面下の氷の本体は人間の潜在意識を表す。人が通常みせている意識部分はこの氷の頭の顕在意識である。
では潜在意識とはどの部分のことだろうか。水面下に存在する氷の本体とはいったいどういうことなのでしょうか。なぜ人は自分自身という一番身近な存在を己自信で自覚することができないのでしょうか。
潜在意識とは深層心理のこと。自分で自覚がなかったり意識はしていないが、自分の中に潜む心の奥底の自分のこと。煙草や酒やギャンブルをやめるには、深層心理の説得しかない。
◆感じて目覚めよ、本当の自分へ・・・
■―――らしさを持つ
人は自分に正直でありたいと思いながらも、自分らしく生きるのは苦手である。他人にどう思われるか、回りから浮いていないかと気にして、自己中心的に行動するのは控えるものだ。
それは協調性を持つということで当たり前の結果だろう。何も考えずに自分勝手に振舞うのも、いいとは言えない。自分の意思をある程度抑えることは身に付けるべきマナーである。
しかし、いつまでも自分の意思を抑えたままで、回りに全て流されるようなことがあるのはどうだろうか。自分の意見というのを持たないのは、自分が本当に望んでいることなのか。
自分らしさを自分自身との対話で、見つけることができているのならば、自分らしい生き方をしてみるのもいいのではないか。こんな一面を持つ私、こんな生き方を選ぶ私、こんな思いを抱く私・・・
◆これが自分と主張したい・・・
あなたが話をはじめる時、そこにはあなた以外の誰かがいることだろう。誰か聞き手がいるからこそ人は話をし、そして聞いてもらいたいと思う。誰も聞いていなければ話をやめ独り言かとつぶやくかもしれない・・・
■対話
人と話をするように自分自身とも話をすることがある。調子や気分はどうかと自分へ問いかけることや、大丈夫だ平気だと、自分に言い聞かせること。誰も答えてくれるはずなどないのに話しかけてしまう。
人は対話をすることで自分を知ることも評価をすることもできる。考えることで自分が何をして、どんな価値があるのかを判断できる。何かを感じることで、行動を変えたり、意識を持ったりできる。
対話は自分自身に新しい価値を与えてくれるものなのか。自分を変えようと思うのなら自分自身に話しかけてみることが近道なのか。もっとも親身になって話をしなければならない相手とは本当は自分自身ということなのか。
人は他人にどう思われるかを気にするが、本当は自分自身がどう思うかに関心があるのである。自分が正しいことをしているのか。間違いに気付きながらも方法を変えずにいるのか、そのことを気にするのは自分ということだ。
◆いつでも自分に正直でありたい・・・
行動によって人は作られ、行動によって人は変わる。理性や感情といったもの以外にも人の性格に左右するものがある。それは間違いなく行動である。どんな行動をしたか、どんな生活を送っているのかで人生は変わる。
■行動とは
手足を含む体の大部分は自分の意思によって動かすことができる。歩きたければ歩け、走りたければ走れ、座りたければ座れる。自分がやりたければできて、やりたくなければできないこともある。
理性や感情によってやりたいことや、やりたくないことは決められる。それをやるか、やらないかを決めるのも自分でできる。それによって自分がどう変わっていくかを知っている人間は少ない。
人の性格がその人の行動を決めるのか。それともそういう行動がその人の性格だと認識されるのだろうか。人の行動にはどんな意味が隠されていて、どんな価値があるのだろうか。
人は行動によって人格を形成する。毎日の習慣が性格を決め、価値観がそれを左右する。人の行動はどう感じるかの認識で変わり、どれだけ重いかの価値で決められ、あらゆる都合で意味をつけられる。
◆なりたい自分を演じることで・・・
お金は大事であることは、十分知っているだろう。そのため収入を得ようと仕事に就いたり、商売を始めたり、人に尽くしたりする。でもそのことにどんな意味があるのだろうか、何で収入を得ようとするのだろうか・・・
■報酬とは
何をするにもお金というのは大切である。経済はお金の流れであるし、モノを買うにも売るにもお金を使う。持ち運ぶには軽くて便利だし、どんなところでも通用する価値の交換手段である。
またお金は労働の対価として支払われるものでもある。あなたがしたこと、生み出した価値に対して、お金が支払われるのは普通のことだ。金塊で支払われたり、モノが支給されることはほとんどない。
報酬は自分で自分自身へ与える場合もある。そして受け取る場合、作り出す場合があるのだ。美味しいものを食べたり、服を買ったりする自分の為に行う行為。休日に自分の時間として利用する場合や、他人から無償で提供される行為。逆に無償で提供する行為の創造や、努力に対して現れる結果などがある。
ただ収入を得るだけではダメで、自分に対して褒美を与えるアウトプット、積極的に作り出すプロセス、そして遠慮せずに受け取るインプットがバランスよく調和することでスムーズな流れをつくる。
◆人と人との交わりがあるから・・・
自分らしさって何だろう。他人とは違う自分に気が付いたとき、人は自我に目覚めるという。自分という境界線を持ち、他人との間に壁を持つ。それは何を意味するのか。その答えの糸口はこちら・・・
■自分とは
自分自身に対して行う自分の行動とは、どんなものがあるだろうか。歯を磨く、顔を洗う、髪をきるなどの清潔を保つ行為や、興味のある本やテレビ、音楽、映画などを楽しむ行為、社会的に役に立つ行動や、自分を表現する趣味など、自分であるがゆえにすることは多い。
その行動の中には、自分がどう在りたいか、どういう人間なのか、どういう生き方をしたいのかが、しっかりと隠されている。綺麗で在りたい、カッコよく在りたい。お笑いが好き、ドラマのような話が好き、非現実的なことが好き。
ここでもインプットとプロセスとアウトプットが存在している。さてどれがどれなのかわかるだろうか。いつでもその関係はかわらない。自分の在り方、自分を知る行為、自分の存在を表す行為。
自分を知る行為、それは自分を受け入れるインプットといえる。そして自分の在り方とは、自分ならこんな時どうするかという自分の存在のプロセスであるといえる。最後に自分の存在を表す行為とは、どういう生き方をするのかということであり、アウトプットであると言えるのではないか。
◆どう在るべきなのか・・・
大きな分類である自分の何に対して考えるかを、考えてみたい。未来は遠く果てしなく見えるが、終わってみると短いものである。今の自分が何をするのか考えておいて損はない。
■自分の自分に対して
考える時の単純な法則は、インプットとプロセスとアウトプットという3つに分類することである。その中でも大きな分類の「自分の何に対して」だが、何がインプットで、何がプロセスで、何がアウトプットなのでしょうか。
インプットとは形式上のもので、別に何でもいいのだが入ってくるものの代表として、何かに対する報酬や収入がある。それに対して自分が何かをするアウトプットは、仕事や労働など行動であるといえる。
ではプロセスとは何であろうか。自分の中で滞留する情報とは何でしょうか。自分に対して処理される対象とはどこにあるのでしょうか。
最も重要とするのはこのプロセスで、自分が自分に対して行うことである。自分が自分に対して何を行うのか、そんな考えを持ったことがあるだろうか。実はこれほど大切なことはないと思う。
◆向き合うことの大切さ・・・
生きることを体系的に少しまとめてみた。少しでも将来のことを整理しやすくなればいいなと思っている。個人的な主観が入っているし、基準がどこからくるのかは明確ではないが、わかりやすいようにいつもどおりインプット、プロセス、アウトプットの三つで考える。
■大中小のアイピーオー
生きることの基準としてまず「誰の」というものがある。もちろん普通なら自分であることに異議はないだろう。実際にはこの自分の中には答えは存在しないことを、後でゆっくり説明したいのだが・・・
まず自分の「何に対して」というのが大きな分類である。そしてその何を「どのように」というのが中の分類である。最後にそのどのようにの「工程」が小さな分類である。
なぜ大中小なのか、なぜアイピーオーなのか、なぜ誰の何をどのようにどうするのかなのだろうか。その理由を知りたいですか。それともあなたはすでに知っているのでしょうか。
人間の思考はピラミッド型に構成されるらしい。大きなものから枝分かれして、小さなものへ論理的思考は展開される。その中でも情報が出たり入ったりするはずだ。それがI/O:アイオー(インプット・アウトプット)であるが、もう一つ情報の滞留するプロセスを用いればバランスがよくなる。
◆マルチマトリクスの思考展開・・・