頭の中ではパソコンのプログラミングのように、言語を用いて情報を処理することが多い。何かを思ったり考えたり話したりするのは、言葉を使って行うのが主体である。つまり頭の中で「言葉をどう操るか」というのが重要な要素になる。
■言葉の魔力
あなたは「言霊」という言葉を知っているだろうか。言葉には不思議な力が宿るといわれている。現実レベルで話をすれば、プラスの言葉を使い続けるとプラスにはたらき、マイナスの言葉を使い続けるとマイナスのはたらきを受けるのである。
「どんな言葉をどう操るか」というのはとても重要なことだと普通の人にはあまり知られていない。だから人は平気でマイナスの言葉を使うし、プラスの力を使おうとはしないのである。
言葉なんて日常生活に支障がきたすことがなければ別に問題ないと、軽く見てはいませんか。どんな言葉を口にしていたって、現実では何も変わらないと考えていませんか。あなたはその力をまだ知らないだけなのではないですか。
経験から言えば言葉は非常に大切で、自分の行動や生活を変える魔力を持っている。曖昧なことも言葉で示すと明確になることもあるし、口に出して言うほど願いや思いは叶う。
◆あなたはきっとこう考えている。
あなたが信じているものは何だろうか。両親や兄弟、友人や恋人、教師やクラスメイト、自分自身はどうだろう。神様・・・それともお金・・・とりあえず固く信じているものを信念と呼ぶのだそうだ。あなたの信念はどこにある・・・。
■何よりも強い感情
私は信念という言葉を知らなかったが、その存在は名前のなかったその頃でも確実にあったのだろう。何かを固く信じる心、そうなるんだと最後まで諦めない姿勢、信念はとても強くそして誰にでもある。
やればできると信じて不可能を可能にしてきたエンジニアたちや、一番になる・記録を塗り替えると意気込んだアスリートたち、彼らはそうなると信じ続けてそれを現実にした。
信念とは何なのだろうか。なんでもそれができると思えば、本当に誰にでもできるようになるのでしょうか。不可能を可能にしてきた人の中にはどんな信念があったのでしょうか。それはできなかった人たちとどんな違いがあったのでしょうか。
信念は根拠のない自信のようなもの。失敗に理由をつけて正当化することもできれば、成功を信じて方法を探すこともできる。初めから諦めていることが、失敗する最も大きな原因である。
◆できない理由ではなく、できる理由を探せ・・・
知識は使ってこそ意味のあるもの。せっかく利用価値の十分にある知識や技術を持っていても「実行」しなければ何も生まれないし、何も残らない。「君はできるだけの力を持っているだろう。なら、できることをやれよ。」ムウ・ラ・フラガ(機動戦士ガンダムSEEDでの一シーン)
■実績という証拠
自分はできる・優れていると知識のアピールをする人と、逆にできるけど何もしないでいる人は、どちらも同じであり、何もできない人である。例え本当は優れた能力を持って、実行する力を持っていたとしても何がそれを証明するのだろうか。
何かができるという事実は、他人からはそれを真実と示す「証拠」が必要であり、裏付けのない事柄は信用に値しない模造である。できるという言葉と、実際にできるのかどうかを表す事実はまったく別のものと言える。
では何ができるという事実を示すのか。その証拠になるものとは何なのか。裏付けとはどういう意味なのでしょうか。それをもう一度考え直してみましょう。
証拠とは何らかの結果であり、結果というのはその事実を示す。結果が示す意味こそ全てを裏付ける理由なんです。それこそが誰も否定のできない真実となり、覆すことのできない理由となるのです。
◆全てを物語るその背景に・・・
いくら物知りでも、その知識が使えないと意味がない。ただ知っているだけでは何の役にも立たない。そこから何かが得られなければ持っている意味さえないのだ。もちろん何も知らないのはもっとどうにもならないが・・・
■思考の中心
人はある程度の経験を積めば、自分自身で判断ができるようになる、そう思いませんか。単なる知識(私は知材と呼んで区別する)は誰かに広める程度の使い道しかないが、経験を積みいくつかの知識が結び付くと、判断できるようになります。
それは人が持つ一番重要な力「思考」なんです。単なる知識が脳の情報処理によって、使えるようになるのは、情報を複雑に加工する「シミュレーション」や関連・意味づけを行う「ネットワーク」そして要らないものを排除する「フィルター」の機能があるからです。
なぜある程度の知識や経験が必要になるのか。情報を加工したり、関連付けることで、判断できるようになるのでしょうか。単なる物知りと、賢者の違いはいったいどこにあるのでしょうか。
高度な情報処理は誰もが持っている普遍的な力ですが、情報の量が少ないと効果が現れにくいのです。ある程度何でも知っていた方が、情報を加工したりつなげたりするのに役に立つ。道具が無いよりは、あった方が色んな作業を行えるでしょ。
◆生きるための知力・・・
一つの事実を知っているということだけでは知識とは呼べないのではないか。複数の事実をつなぎ合わせることができる関連性を持たすことができなければ、それは情報としても役に立たない。
■森の中にある木
あることについて知っていても、それ以外のことについて知らなければ、それが本当のことなのか確かめることができない。つまり、偽物をつかまされても本物を知らなければ、偽物と区別することもできないということだ。
それは日常でもよく経験する。知人から噂を聞くが、他の誰もそのことを知らないから確かめようがない場合や、はじめて見る商品の値段が妥当なものなのか判断する場合である。
少ない情報でももっともらしく聞こえたり、信憑性のありそうな言葉は信じてしまいますよね。へんに疑い深い印象を与えるのも嫌だし、しつこく否定するのはあまりいい気がしません。
しかし情報が少ないと確かめることが困難になります。できるだけ多くあってほしいのです。森の中で木を選ぶように、見比べたり、並べたり、囲んだりして整理、関連付けを行えば自然と一つにつながる。それが知識です。
◆経験を通して得られるもの・・・
この記事は2004年の11月22日に[Blog]インテリジェント・ノートで公開していたものに修正を加えたものである。melma!blog2005年11月30日をもってサービスを終了していますので確認はできないでしょうが・・・
■知材、知力、知跡
ナレッジとは「Knowledge」と書きその意味は知識と訳されます。知識とは知っていることや知り尽くしていることなどで、理解や認識をしっかりできている状態のことだと思います。
しかし聞いただけのことを、ただ「伝えるだけ」で何も知らない人には知識があると感じてしまいます。つまり中身がなくてもいいわけです。例えるなら郵便配達の人は配達物がどういったものか全然知らなくても運ぶことで役目を果たすのと一緒で、言葉が伝わればその相手は大体の内容を自分自身で理解してしまうものです。
本当の意味での知識とはどんなものなのでしょうか。内容や概要といった物事の表情なのでしょうか。それとも手法や対応など、物事の活用方法なのでしょうか。超高層ビル・ハイテクコンピュータ・戦闘機・・・など物を創造する力なのでしょうか。
知識それは三つに分けることができる。その物事を知っている、その物事を十分理解して使える、その物事を有効に利用・活用して何かをすでに行ったことがある。この違いを一つの言葉として私たちは使っているのだろう。
◆本当は何も知らない・・・
自分の思い通りに進まない物事。わかっていてもできなくて、思っていてもうまくいかない。教えられたことをただ実行したって、教えられた結果を得るのは難しい。人生に答えなんてあるのだろうか。
■自分らしさも・・・
やりたいことや将来の夢など自分が目指す方向性はなんとなくわかってはいるが、明確にすることが出来ない時など、わかったような気になっていても何も分かっていないことは多い。
自分以外の誰かにそのことを指摘されると、自分では分かっているつもりだと反論したくなる。なぜやりたいのか・・・などちょっとした質問でも答えることができず、追い詰められてしまう。
そんな時こんな方法や手段に出会うこともある。あなたが成功する方法・・・これで何々ができるようになる・・・など自己啓発や成功マニュアルまたは成功ノウハウである。
実際にはその内容というのは、ほとんどが虚実ではなく事実であるが、それを扱う人間によって効果は0%にも200%にもなる。答えを単に答えとして受け止めると、それ以上に応用することができないのである。本質をつかむ力と、自分らしさを加える力が必要なのである。
◆一つ聴いて十の意味を理解する・・・
人間は皆同じ世界に生きていると誰もが知っていて、疑うこともしないだろう。距離は離れていたとしても、時間や空間の異なる次元に存在しているわけではない。だが人によって生きている世界の感覚は大きく異なるだろう。それが世界観というものである。
■観測者
生きている世界とは、用意されたものであって、誰かの手によって作られた創作物であると認識している人も多いだろう。確かに住んでいる家も街も、食べている食料も、着ている服も誰かによってつくられたものだと言える。
私たちはそれを自分の目で見ることで、そこには何があり、どうなっていて、どんな場所かを知る。他人を見ることで自分を知り、他の生き物を見ることで自分が人間だと自覚するのだ。
しかし誰もが同じ世界に生きているというのは勘違いかもしれない。同じ世界で自分だけが不幸な思いをしているとか、自分だけが苦しいと感じてしまうのは何故なのだろうか。他人を恨んだり、羨ましがったり、嫉妬したりするのはなぜなのでしょうか。
それは自分が見えている・感じているものが、世界の本質であり、誰もが同じ印象でその世界を感じとっていると錯覚することにある。つまり初めから枠を決め付けていて、それ以上のことが受け入れられないのである。それこそ小さな世界観の正体ではないでしょうか。
◆無知だと知る時・・・
人は目を二つもち両方で見える映像を一つのものとして立体的に認識します。物事を捉える時に用いられる言葉も同じ「視点」と呼ばれます。消費者の視点で、作者の視点で、他国の視点でなど・・・そうやって考えると立体的に感じることができます。
■立体的な考え方
あなたにはあなたの意見があります。私には私の意見があります。みんなにはみんなの意見があります。それぞれ異なることを言っていたり、関連性のない事柄のように感じても実は同じことを言っているというのはめずらしくありません。
それは自分という視点からは見えている物事や見え方が、相手には逆になったり反転したりと変化するからです。さらに視点というのは全体や対象外から見た第3者視点というのがあります。
人は自分が正しいと思いがちですよね。一方的に他人を責めたりすることもあります。なぜ相手の意見を聞いてからではダメなのですか。自分が間違っていないという理由を第3者に示せるのでしょうか。
説得力というのもこの三者の視点に関係していると思います。自分と相手と第3者の3つの視点で立体的に物事を分解し、距離や内容を確認しなければ隠れた事実や認識の違い、その他分かりえない事情を理解や納得するのは難しいのです。
◆立体的思考の力
人は話をしたり食べたり立ったり座ったりと様々な行動ができます。ロボットに同じようなことをさせるにはどうすればいいと思いますか。いろんな方法があると思いますが、人間と同じような動作を真似たプログラムがあればできそうですよね。
■思考プログラミング
ロボットは単純な動作でも複雑なプログラムが必要です。それは人間でも一緒かもしれません。幼い子供をよく観察してみてください。まだ動きが不安定で危なっかしい感じを受け取れませんか。
実は人間も同じように複雑なプログラムで動いているのかもしれない。ただそれを認識していないだけで脳の中では何が起きているか想像もできないでしょう。それは意識ではなく無意識の存在を感じさせるものです。
考えるという行動は意識的なものでしょうか。それとも無意識のものなのでしょうか。それがどのようなことを行って考えるという行動になっているのでしょうか。考えることと行動することは違うのでしょうか・・・
人間の制御は脳が行っています。考えること行動すること、それは全て脳が行う情報処理の結果だといえます。そのほとんどは無意識の領域で行われ意識はほんの少し決断したり思ったりするだけです。
そして脳が考えているという状態と思考とは別のことなのです。生命の維持や本能、欲求と思考したり想像したりするのは、違うということです。だから処理能力の飛躍的に上がったコンピュータでもいまだに考えて喋ることは出来ません。
◆インテリジェント・ノート