私たちは当たり前に話したり、それを聞いたり、それで思いついたり、時には行動を起こし何かしらの反応を示す。しかしその理屈は何かを知らずにいる。わからなくたって何も問題はないが、考えてみると世界が違った風に見えるだろう。
■思考プロセス
人と人はコミュニケーションをとることができるが、その時に相手の行動や意図を感じ、それに対してどのような行動をとるか考えることができる。話を聞きながらその情景を思い浮かべることもできるし、どういう意味か理解することもできる。疑問があれば聞き返すこともできるし、こちらから話すことも可能である。
その時、頭の中では複雑なプロセスが働いていることだろう。私には他人の頭の中は見ることも感じることもできないが、反応を見ながらある程度の予想を立てることくらいならできる。話を聞いているのかいないのか、理解しているのかいないのか、聞く気があるのかないのか、判断することはできる。
それはパソコンの動いている仕組みと似たようなもので、一定のプロセスがそこに存在するからだと思う。パソコンならエラー表示するように、人もわからなくなると不安そうな表情をするものだ。顔の表情は一つのインターフェースと言ってもいいのかもしれない。
パソコンの扱うデータ、内部処理、結果出力といったように人も話の内容、考え方、それに対する行動を示すのかもしれない。そういう風に考えながら人と話をしていると、相手が何を考えどうしようと思っているのか、わかる気がしますよ。
◆あなたにも人の心が手に取るようにわかる・・・
人の行動はその人が持つ考え方によって左右される。そして行動によって人の考えは変わるのである。行動は考え方によって、考え方は行動によって、どっちが真実なのだろう、それはどっちも真実である。
■あなたは今何をしていますか。
自分がどんな人間かを知る為には、自分で自分をよく観察することだ。起きる、仕事へ行く準備をする、働く、休む、遊ぶ、何も考えずに一日は過ぎていく。でもそこにはあなた自身の考え方が隠れている。
仕事に行きたくないと思うと起きるのが遅くなる。よく遅刻をする人は、遅れてもいいと思っている。どうしても遅れられない人は、早く起きて準備をする。何かトラブルが起きても対処できる余裕を常に確保しているのだ。
仕事でも早く帰ることだけを考えながら時計を見ている人、時間内にできるだけのことをしようとしている人では違いが出てくる。給料だけを貰いに来ている人と、会社の為に役に立つことで対価を得ようとしている人では働く動機が違う。
あなたはどっちが正しいと思いますか。そしてどっちの考え方を持っていますか。実際はどっちも間違ってはいないし、決めるのはあなたです。どっちの動機でも会社は仕事の良し悪しを見る。できる奴は評価される。しかし10年後どうなっているかぐらい予想がつきますよね。
◆行動と考え方は常に一対である・・・
何か新しいことを始める時に上達の早い人は、まず真似ることから始める。自分と相手は何が違うのか、どうすれば同じようにできるのかを、見ながら感じながら覚えていく。
■感覚の記憶
ボールを狙ったところへ投げる場合、始めの1球は思ったところとズレがあるだろう。それは遠くに投げるほどわかりやすくなるはずだ。練習をしていけばある程度コントロールもよくなるが、もっといい方法がある。
それは感覚の記憶を利用することだ。始めの1球を投げた時の感覚と、ボールの行き先を覚えておいて、それに修正を加えていくというシンプルな方法である。イメージ通りにいけば数回投げればかなりの高確率で同じところに投げれるようになる。
世の中には理論として伝えられるものも多いが、実際に行動を起こすときには感覚が重要になる。それは文字を読んだりするのではなく、実際の行動を見ながら体感するのが一番いい。投球フォームもゼロから作るのではなく、目指す球筋のピッチャーから盗むべきだ。
言葉は聞いたり書いたりすれば覚えられる。では感覚はどうすればいいと思う・・・それはもちろん体感すればいい。模範になるものを見て感じれば覚えられるのである。どんな時でも同じだと私は思います。
◆自分の型を作るにはまず誰かの型を真似てみよう・・・
自分の中にはもう一人の自分がいる。それは自分自身の中の別の自分であり、そして自分である。話しかけることもできるし、嘘をつくことも面白いことを言って笑わせることもできる。自分との付き合いにも上手い下手があるのである。
■自問自答
会話では相手に対して問いかけることがある。疑問に思うこと、興味があること、それは他人に対してのみ行う行為ではなく、自分に対しても可能な行為である。その問いかけに対して、当然答えることも可能である。
考えるというのは自分への問いかけに似ている。何々があって、何々がどうなって、では何々はどうなり、だから何々になる。自分自身へ問いかけるというのは不思議な感じがするが、自分の中の自分へも他人へも行う行為は同じことである。
問いかけるという行為はどのような意味を持つのだろうか。それは自分に対して行うことによって何が変わるのだろうか。そしてその行為を行うのと、行わないのとではどんな違いが生まれるのだろうか。
自問自答は「己を知る」という重要な意味を持つ。自分のことを全て知っている人なんていないでしょ。人は自分を理解するにも問いかけなければならない。他人を受け入れるように、自分を受け入れる為にも問いかけなければならないのである。
◆それが正しいのか間違っているかも、人は自分へ問いかける・・・
パソコンでプログラムを組んだことがあるだろうが。プログラムのソースには人が理解できるレベルで、ルールの決められた言語が書かれている。しかし機械はそれよりも単純なコードを組み合わせることで、複雑な動作をする。言葉で言うのは簡単でも、中で行われている処理は想像もできないくらい複雑である。
■人の処理能力
ロボットの指や手を、人間のように動かすための制御は、複雑なプログラムを組む必要があると思う。モーターの回転だけで走るラジコンとは比較できないくらい、制御の構造もプログラムも複雑になるだろう。
人というのも複雑な処理が行われているに違いない。間接一つ一つに細かな力を調節する制御を行うとしたら機械では可能かどうかわからない。その正確さや応用力は機械には真似できないだろう。
その動作を処理する能力に驚くべき可能性が秘められている。人間は更に進化することができるのだから、複雑な処理を強化することで、もっと優れた能力を発揮することができるのである。
動作の途中をとばして単純化したり、二つの別なもに分けたり、同時に実行できるようにしたり神経回路をつなぎなおすことが可能なんだろう。それによる動作は常識的なものを覆す。
◆意識を超えた身体能力・・・
バラバラだったものが一つになるように、その動作は実行される。頭では判断できなくても、体が覚えているのならば、あとは自然と動けるものである。それは緊張感のピークでも、熱くなった感情でもない・・・
■リラックスの最高潮
車で事故を起こしたことがあるだろうか、私は過去2回ほどその経験をしている。死ぬ直前には走馬灯のように過去の出来事が一瞬で巡るらしい。その時は一瞬の出来事が数秒のスローな映像として流れていた。
車がスリップし横すべりしながら見ていた、真横に流れる風景は、もの凄く速く感じるのに思考はゆっくりとその映像を捉えていた。その一瞬だけもの凄い集中力があったことを実感できた瞬間だった。
同じように集中力を高めると、緊急時に近い体験をすることができる。頭は回転がよく、状況を的確に判断して、最適な決断を下す。体はキレ、想像もできない動きができる。自分でも信じられない体験がそこにある。
その状態は意外にもリラックス状態で訪れる。一生懸命に頑張っていても、集中力を奪われいくだけで、鋭さが足りない。テンションは上がり熱くなりながらも、冷静さとリラックス状態で、ピークを保ち続けるバランスが大事だと思う。
◆覚醒した意識の中で・・・
物事を考えることを思考と呼ぶなら、行動するのは思考ではないかもしれないが、自分の体をコントロールしているのも同じ脳であるから、体の動きも違う意味で思考と呼べるのかもしれない・・・
■分岐点
書いたり読んだりして言葉などを覚えることを暗記というが、同じように繰り返し行動をして体が思い通りに動くことを、体が覚えると言う。何も考えなくても体が勝手に反応することをそう言っている。
体の動きは一度覚えれば、頭で考えるよりずっと速く反応する。車の運転をしているときはブレーキだ!ハンドルだ!と思うより先に体がその行動を起こしているものである。
実は一瞬とも思えるその速さは、操作することができる。体が覚えた一連の動作を、途中で止めたり間に違う動作を追加したりできるのである。速さ自体は、意識で認識できる限界レベルにすぐに達するが、その間でも行動の変化は起こせるのである。
ブレーキを踏みながらも、踏む力の調整やメーター・バックミラーの確認、シフトチェンジの準備など、同時に行えることはいくらでもある。体で覚えた動作でも、意識さえすればいくらでも変えられる。
◆一瞬の動きの中に詰められたもの・・・
人は働いてモノやサービスを生産する。その活動は意味のあることもあれば無駄なこともある。時間を割いても一生懸命頑張っても、間違うことはあるし最後に失敗することもある。だからといって何もしない、何も始めないのは本当に無意味ではないか。
■実体のある場所
基本的な概念を持ち、それを応用できる能力や機能を備えても、実行や行動のような実体が存在しない場合は何も結果は得られない。概念や能力などの見えないものでは何も生まれないのである。
十分にその力があるというのなら、それを形あるものとして見えるようにしなければならない。その力を示し、その力を表し、その力を証明する。形あるものとして残せなければその存在は不確定だ。
力があるというのならどうやってそれを示す、どうやって表現する、どうやって証明するというのだ。その力があってもなくても偽ることなら簡単にできる。難しいのは実現するということではないかな・・・
夢を見るのはいいがそれを形にできなければ、その思いは無駄になる。思いというのは重要だが、それだけでは何の役にも立たない。力だけでもダメである。思いと力の両方を持たなければいいものは作れない。
◆志を高く、力強く、はばたいていく・・・
基本的なことをグループ化してそれらを3の乗数とするようにピラミッドを形成するだけでは実は形が見えてこない。人生の成功哲学だったり、必勝法だったり要素を十分に理解しても骨組みだけでは何もできないのだ。
■真の姿
物事の基本を押さえることは本当に重要なことで、基礎基本を知らずに物事を進めるのは少なからず損をするし、近道のように見えてかなりの遠回りをしていることになる。最終的には基本こそ全てだとわかるときもある。
基本をどうやって応用するかが最も重要なことなのであるが、そのことは基本を押さえるのとまったく逆のアプローチをとる。結果や終着点が基本である場合もあるが、基本がスタート地点になることもあるのだ。
基本とは何なのでしょうか。いろんなことに共通する一つの結果に過ぎないのでしょうか。それとも何かの始まりとなる最小で最初の一歩なのでしょうか。その一歩から始まる可能性はいったいどれだけの可能性を秘めているのでしょうか。
初めの一歩は重要ですが、大事なことはその次の歩を進め続けるということです。一歩で終わってはいけません。それを様々な方向や可能性に広げ、それを更に続けるということが最も大事なことなのかもしれません。
◆可能性を広げ続けるには・・・
一つの話の中に重要な言葉は、いくつも存在するかもしれません。その重要な言葉は場合によっては数十や数百になるかもしれない。その全てを押さえるというのは難しいことではありませんか。でもそれができるというのなら力強いですよね。
■3の乗数
物事に存在している重要なポイントは、通常複数存在する。一つだけや二つだけというのなら人は簡単に覚えれるから物事に複雑さは感じないが、それ以上になると次第に複雑で困難なことのように感じられる。
それは図形を描くのに似ている。点と点を結ぶ直線なら簡単に真っ直ぐでも蛇行した線でも自在に描けるが、3点を結ぶ三角形からそれ以上の点を結ぶ多角形では、その間の距離や間の角度、中心となる点の位置など複雑さは増していくばかりである。
数はできるだけ少ない方が簡単ではないですか。変化の少ない自由度がない方が単純ということですよね。多角形を多角形のまま描くことは本当に難しいことだと思いませんか。それを小さく分けてしまえば多角形は小さな図形の集まりになりますよね。
大きなことは、小さなまとまりとして区切りグループ化し、必要ならそのグループを更にグループ化してまとめ次第に小さなまとまりの大きな組織にしていく。そのグループ化に最も適した数字が3であることを私は証明したい。
◆対立も分裂もしない数字3・・・